なつかし写真館

【目次】
第一回
第二回
第三回
第四回
第五回
第六回
最終回

第一回


①1歳半頃
汚れなき天使の様な幼子よ。こんな可愛い子は、めったに居りませんぞ!


②幼稚園卒園記念
この子が将来、山谷に入り込み、飯場暮らしをし、ヒゲを生やしてギターを持って歌い、歌を途中でほっぽり出して過疎の村で田植え稲刈りの生活をし、そして…。
そんな事やらかすなんて信じられますか。


③小学4年生の頃
鼻をたれ、ドロまみれになって遊んでいた小汚いガキも、こうして着るものを着せられて十字架の前に座ると、それらしく見えるから恐ろしいもんですな。(アーメン)

 

第二回


④小学5年生の頃
オッチョコチョイの本性が少しずつ発揮され始めたようであります。


⑤小学5年生の頃
勉強はさておき「学芸会」「運動会」ともなれば、言っちゃなんだが「大スター」でしたな。


⑥小学校の卒業記念
この時、私は決心したのです。「中学生になったら心を入れ替えて勉強がんばるそ!」と。
さて岡林君はどうなったでしょう。
次の中から正しいものを選びなさい。
A:学級委員長になった。
B:学級宴会部長になった。

第三回


⑦中学1年の夏。
中学生になったというのに、脱力感に満ちた緊張感のカケラもないこの顔を見よ!(写真までピンボケやないか)


⑧中学2年生の頃、友人宅の庭で。
中学生になって鳩飼育にのめり込んだ。鳩を触っている時こそ至福のひと時。例えテストで100点とってもこんな顔はしないであろう。(とった事あるのか)


⑨中学3年生の運動会。
中学生になっても、運動会、学芸会に於けるスターの座を手放す事はなかった信康君であった。(勉強はどないした)


⑩中学3年生も終わりに近づいた頃。
幼稚園、小学校、中学校と12年間通学したミッションスクールには高校もあったが、思い切ってそこを出て公立高校への進学を決意した。希望に満ちたこの顔!
ミッションスクールが浮世離れした温室であった事を、身に染みて知る事になろうとは、神ならぬ身の知るところではなかった。(後になって神様なんて呼ばれたりするけどね)

第四回


⑪赤い屋根に白い壁。おとぎ話のようなミッションスクールから、元兵舎を改造、利用した木造オンボロ校舎の公立高校へ。
木造で火事の危険があるため教室にストーブはなく、冬はコートを着たまま授業を受けるという厳しい現実。
ミッションスクールがいかに浮世離れした甘い楽園であったかを思い知らされた。そして次から次にやって来るカルチャーショックの数々。ついに耐えかね高校2年の時、登校拒否、引きこもりとなり果てた。
写真は「あと1週間休んだら落第だぞ」と先生から告げられた頃のもの。
虚ろで空しくつくり笑いの信康君。(どないするのや?)


⑫高校2年の体育会。仮装行列で闘牛士に扮する。こういう時は積極的に登校し、クラスの仮装行列実行委員長として様々なアイディアを出して奮闘。見事に仮装行列大会で優勝し、級友たちから感謝、称賛を浴びる。
(そのエネルギーを勉学に向けなさい)


⑬虚しさを紛らわしてくれた鳩飼育も2年生でやめ、父が牧師をするキリスト教会の伝道活動に生きがいを見出した高校3年の頃。何とか進級した学校へは相変わらず行ったり、休んだりだったが、父の跡を継いで牧師になろうと決意する。
(授業もロクに出てないのに、大学の神学部に行こうと思えるアンタはえらい!?)

第五回


⑭1965年。「同志社大学神学部は、牧師の息子なら答案用紙に名前さえ書いておけば合格する」という話を信じ、何の受験勉強もせず入試にトライして見事アウト!(当たり前や)
みじめな浪人となって、さぞやつれているだろうと思いきや、ポッチャリ太ってとっても元気で幸せそう。もう学校に行かなくても良いのだという安心感から太ってしまったのだ。(よっぽど学校が嫌だったのね)
私がポッチャリとしたのは幼児期を除いてこの時期だけである。(禍い転じてブタとなる)


⑮一浪後、何とか神学部に入学したが真面目に講義に出たのは最初の3日だけ。入学した事で目標がなくなってしまったのか、生来の学校嫌いがムクムクと頭をもたげ、クラブ活動のボクシングをやるためだけに通学する日々となる。これではイカンと思い悩む夏休み、ひょんな事から東京の山谷で布教活動をする牧師さんに出会い、「君も山谷のドヤ街に入り肉体労働をして社会の現実を知りなさい」のひと言で、ドヤ街に住み込み、肉体労働の日々。
今まで信じていたもの全てがひっくり返るようなショックを受け、人生観、社会観が一変。
それからの私はボクシングのために大学に行くかたわら、気が向くと上京して山谷で肉体労働の日々。
そんな1967年6月、地元滋賀の近江八幡で行われた高石友也コンサートに大感激。「自分の中にたまっているものを歌にして吐き出したら気持ちが良いだろうな。俺もやりたい!」と浪人中、加山雄三にあこがれ少しばかりいじった事のあるギターを本格的に弾き始め、我流で作詞作曲を開始。
遂に岡林は悪魔に魂を売り渡し、神の道から歌手の道へと大方針転換したのでありました!?

第六回


⑯1967年11月23日、滋賀県のキリスト教会で行われた高石友也コンサートに飛び入り出演してバカ受け。増々ヤル気になる。
この頃、自作曲を聞いてくれるならコンサートとは呼べない様な小さな集まりにも、積極的に出かけて歌った。
写真は滋賀県のあるキリスト教会でのものだが、私の歌に身をよじって笑う人たちを見ながら、「歌で生きてゆけるんじゃねえの!」と増々自信を深める私なのでありました。
(キリスト教会で歌う度に、ドンドン神の道からずれて行ってゴメンね!)


⑰1968年1月。同志社大学、そして私にとっての学校でもあった山谷よさよなら。私は「琵琶湖干拓地、入植者住宅建設工事」の飯場に住み込んで働き始めた。「肉体労働をしながら、時々コンサートで歌って何とかやってゆきたい」と思いつめての事だった。
両親には、良き牧師になるための社会勉強をしている、とかなんとか言ってごまかしたが、心配だったろうに。
しかし一番心配で心細かったのは私である。一体ワシの人生どないなるんやろ。
「泣くな信康、男じゃないか。嵐がお前を呼んでるぜ!」(演歌か)


⑱工事現場では昼メシも早めに済ませ、熱心にギターを弾く岡林君でありました。(というか仕事はかなり手を抜いてギターばかりいじってた)

最終回


⑲フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が大ヒットし、世はアングラブームの真っ只中だった1968年3月27日。大阪サンケイホールで行われた「アングラ音楽祭」にフォーク・クルセダーズ、高石友也、その他大勢のアングラ歌手にまじって出演して大拍手を浴び、新聞にも取り上げられた。
そしてフォーク・クルセダーズや高石友也が所属する音楽事務所から「うちでやらないか」と正式な要請。天にも昇るとはこういう気持ちの事を言うのか。
(やったぜ信康君!)
ここに「歌手岡林信康」が、遂に誕生するところとなったのであります。
めでたし、めでたし!